四柱推命学の十二運に「死」というのがありますが、だいたい素人の方は
この言葉にギョッとなってしまいますね。
自分の四柱に死があったら早死になんでしょうかってよく聞かれますからね。
確かに「死」は死神と捉えられる場合もありますが、大概は動きが滞るという
意味であり、むしろ死自体は墓に入るという意味から次の「墓」の方で説明
されることが多いのです。

それはともかく、今「絶歌」出版であの忌まわしい事件が再び話題となっています。
これは1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者少年Aが書下ろした
手記です。
この事件は加害者が当時14歳であったこと、そしてあまりに特異な殺傷事件で
あったこと。
それらを含めて我々占術の業界の方、スピリチュアルな業界の方、医学方面の
方々もこの書籍の内容には注目されたと思います。
私としてはタイトルに墓の次にくる「絶」を持ってきたことが何とも不吉な感じを
抱かずにはいられませんでしたが・・・

これは私も特殊な立場として読ませてもらいました。
高い文章能力と優れた洞察力もある。
手記にもあるように「死」を自らの手で手繰り寄せたのに、なぜ人を殺しては
いけないのか?の問いにはきちんと答えられていない。
私も考えました。 なぜ人を殺してはいけないのか?
そこにごたくを並べる必要は全くありません。
答えはシンプルで単純です。
それをされたらどう思うの?です。
人殺しを認めるということは自分が殺されることも容認するということです。
ではなぜゴキブリを踏み潰したからといって死刑にならないかは、それがゴキブリ
だからです。 ゴキブリは人を殺せませんからね。
人間は人間を脅かす存在なのです。
だから殺してはいけない。
でもこういうことをきちんと言葉にして伝えていかなくてはいけない時代が来たと、
そう解釈しています。