人間という生き物は、結局のところ愛を求めて彷徨い歩いているのではないでしょうか。
たとえ外部との接触を遮断しているような人間であっても、今以上の愛の損失を防ぐために
遮断しているにすぎないのではないか、逆に愛を求めるからこそ遮断を繰り返す、
そのように思うのです。
そしてその愛の損失を補填すべく物欲に走ったり、名誉欲に固執したり、酒色に溺れたり
と人を支配していくか支配されてしまうかの極端な世界に入り込んでしまう。

このような一節があります。
〝愛はすべてを克服する
 だが愛は車のように発車させることはできない
 愛は銃でとどめることもできない〟
ふむ。。皆さんもおわかりのようにその通りですよね。
愛に蓄積があればそれに越したことはない。
ただ消耗が激しい人に愛を出発させよと言ったところで無理なように思う。
卑屈になってしまうだろう。
私だってほんの多少なりとも愛の蓄積、愛の貯金があるからこそかろうじて保っている、
生きているというのを実感しますもの。

そしてこんな歌もありますね。
〝小さな頃は神さまがいて毎日愛を届けてくれた
 心の奥にしまい忘れた大切な箱
 ひらくときは今〟
この歌には希望があります。
やはりまずは希望を持たなければいけないんでしょうね。
希望を持つことで愛が出発できる可能性が広がる。
愛が出発できたなら、愛を克服し、蓄積ができ、貯金ができるかもしれない。
いつまでも希望を一つや二つ持っていたいものです。